特集 国民健康づくりを考える 昭和54年
「食生活と身体の退化」
ー歯科臨床を通しての健康作りのためにー
はじめに
私たちは健康でいるときには、病気のこと、病人のことなどをほとんど考えない。
病気になると、ある日突然に病気に取り憑かれたと思い、健康のありがたさを感じる。
幸いにして回復すれば、喉元すぎれば何とやらで苦痛も悩みもやがて忘れ、同時に健康のありがたさも感じなくなってしまう。
そうして、それが繰り返された時には、不治の大病を患う。歯科疾患治療の現状
歯科疾患の主なものは、ムシ歯と歯槽膿漏(歯牙う蝕症と歯周疾患)で、ムシ歯はどのように治療しても元のようには戻らないし、歯槽膿漏も治療したからといってやせ細った顎の骨が若い頃と同じようにまで治癒することはない。治療はただ病状を良い止め、人工の修復物を装置して噛めるようにし、また外貌を元に戻す、ということにすぎない。人工的に装置された修復補綴物は、使えば損耗する。そこでまた、やり直しとか、修理が必要となる。このようにして老若男女の別なく、国民全員が一生の間、燥り返しこのような医療を受けている。そして、その費用は年々総医療費の約1割、実は2割近く、2兆円ほども費やされ、数年後には倍増する、という予想がたびたび発表されている。
さほど難病でもない歯科疾患の治療について、今日ほど取り沙汰されたことはなかったであろう。歯科疾患はまさに国民病といえるほどの一般的病気で、また再々これに悩まされるということは、大方、誰もが体験から承知している。
子育て中の乳歯の治療、思春期歯列不正矯正治療の問題、中高年齢層の歯周病治療の問題、老人の義歯の問題、どれもが診療拒否、高額自己負担などの形で問題化しているだけでなく、案に相違しての短時日の破損、再発からの医療内容に対する疑問、不満が解消されず、訴訟問題にまで発展してきている。最近の新聞報道では、歯の治療が思わしくなく、子供にも同様な病気が進んで家庭のトラブルと重なり、それを苫にして幼い子供2人を道連れ、若い主婦が心中を遂げたという事件が報道された。何故、はかばかしく良くならないのか、また再々次第に悪くなるのか、それも相当長期間の治療の結果、またその場所だけでなく、その近隣の歯が、歯ぐきが悪くなってくるのか。完全な治療、再発破止、予防が強く望まれている。
ムシ歯は、まず1歳で12%、2歳で47%、3歳で87%の子どもに乳歯う蝕として発症、年々増加しているが、全身麻酔のもとでも完全治療、再発防止は望めない。
開業臨床の現状では疾病の増加に対応できず、治療処置はできるだけ短時開にすまされ、人間関係は没却され極端に損われている。国民こぞって歯科医の急増を望んでいる。このような現状の中で乳歯の健康は、歯の一生の中で最も重要でありながら、その治療は痛み止めだけで放置されている.
予防は、躾でするしかない。しかし、多くの若い母親は、躾ける努力を続けられるほどに乳歯の健康の重要さに理解をもたず、健康生活についての他の躾、排便、入浴、洗顔、着がえなどに比ベ、ほとんど行なわれていない。そのうえ治療の場での予防についての話し合いには、たとえ経済の問題を度外視して努力してみたとしても、待ちどおしい多くの患者からは無用のことと排斥されさえもする。
しかし開業臨床の場での出会いは、治療の場としてだけではなく、再発防止、予防について理解を深め、実際活動を身につける唯一の場であると捉えることも必要ではなかろうか。まさに、場違いとまで考えられている臨床の場での、予防についてのあらゆる計らいは、この治療の際に、このたびの治療こそが最良の結果を、そして再び繰り返すことのないように、と願望しているこの
治療の機会に、それに答えるにはどうすればよいのかについても知ることができるとしたら、これに勝る場のあるはずはない。
一方、歯科医の側からみても短期間の破損と再発は、理由のいかんにかかわらず、欠陥治療、予防注意の不足、任務怠慢と決めつけられる最も忌まわしいケースである。だから、歯科においては再発予防の問題は、両者にとってまさに共同の重要関心事である。だが現実には、時間、人手の不足の問題が厚い壁として立ちはだかっている。
治療のための局所的病因の制御 —プラークコントロール—予防は、病因の制御と免疫抵抗力の強化によって達成される。口腔疾患の病因は歯垢(デンタル・プラーク)の異常成熟と停滞のための細菌汚染であり、身体の退化による免疫抵抗力の減弱である。
濃厚・強力な病因の存在のままでの治療処置の成績は不良で、口腔汚染のまま、体力低下のままの治療は、効果不良であるばかりでなく、再発必至であるため無益で無駄であることなど、強い動機のある今、ここでどうにかして、完全に理解してもらえる方法はないか。それは時間のかかるお説教ではなく、自分の今がまさしくその通りであることを、気づかぜることにあるのではなかろうか。
筆者は昭和23年、保健所法改正と同時に、保健所口腔衛生孫として、来所妊産婦に対する口腔衛生指導の方法を模索して悩み、ほんの僅かの割り当て時間の中で、本人の口腔から採取した歯垢を単染色、懸滴、暗視野の方法でその内容が生菌叢であることを認知させ、歯垢を染色顕示することによって、その停滞の量と範囲を確認させる方法を考え、実行してきた。
その後、これらの方法を一層改良し、約10年前から位相差顕微鏡にテレビカメラを接続し、モニターする改良方法で時間を短縮し確実に認知できる方法として、現在用いている。これによって、情緒的・感動的に与え得た認知、認識は、病因除去の適正な療養行動への強力なバネとなる。
患者の治療参加意識が家庭生活での健康作りとして定着する
局所病因の除去、すなわち歯垢(デンタル・プラーク)の制御を適正に励行できる方法を解答することから始まる病因除去(プラークコントロール)の指導は、適正な方法、技術の指導だけではなく、病因除去が患者自身の役割で、それによって自分も治療へ分担参加すると認識させ、治療効果の責任を共有することを理解させる方法ともなる。
治療に最も役立つ病因の除去は、患者自身が適正な方法を確実に励行することによってのみ遂行される。したがって、望まれる効果的な治療は、患者と治療者、両者の努力と協力を必要とすることの理解、言いかえると、患者自身の原因除去についての役割が果たされるのでなければ、治療は片手落ちの不十分な結果となることについての理解が、療養の励行を効機づけ、健康指導の第一歩として始められる。治療の効果を高め、その良好な結果を長く存続させ、再発を防止させるための最初から最後まで、患者自身によって病因の除去が徹底的に行なわれる。そのような歯科治療方式は、決してお説教による知識、理解の力によって続けられ、成功するものではなく、ただ患者自身が情緒的感動などによる動機からの行動、その効果としての回復感を体得し、健康への爽快感の確認によって支えられ、励まされ、続けられることによってのみ成功するもので、最後まで患者自身の続けた療養の方法と治療参加、役割分担の意識は習慣として定着し、治療後も長く養生法、再発予防法、健康法として、その人だけではなく家庭の新しい健康作り生活様式として家庭生活に組み入れられてゆく。
しかし、この局所病因の除去は、適正なブラッシングなどの確実な励行によって、初めて成し遂げられるものであるため、便利さ、安易さを末めるわれわれの現代生活、特に病気の苦しみも健康の有難さも感じない元気なときには、文明に逆行するような復雑で困難な苦行とさえ考えられる。
回復と再発防止に強い願望を持つ治療の場においてさえも、十分な期間と再指導を通じて実感、体得を基礎に習慣にまで定着するのを見定めなければならない。それでもなお、この局所的な病因の除去だけでは、全身的免疫抵抗力を高めることにつながらないため、歯と歯肉を芯から丈夫にすることはできない。局所の抵抗力を回復させ強化するには十分でないため、努力の効果がはっきり
と体得できない場合もあって、またしても不十分な状態に立ち戻る場合がしばしばである。
病因の歯垢除去のむずかしさは、歯垢の性状、食物の性状によっても左右される。口腔常住細菌が蔗糖を利用し、非常に粘着度の高い細菌叢を形づくることから、庶糖摂取の制限は口腔清掃を容易にまた簡単化する方法でもある。
また食生活が、粘着度の高い飲食に過ぎる高温な食事である場合は、歯垢の停滞は非常に顕著であるのに反し、粗で硬く、体温に等しい清浄新鮮な野菜の生食などであるならば、咀嚼により、また口中での食物の流れが、歯表面の細菌叢を削り落とす作用をするために、口腔清掃は非常に簡単ですむことになる。
治療のための全身的病因の制御 —ダイエットコントロール—
食事の内容成分が、歯および歯列組織の抵抗力に関係することは、胎生期あるいは生歯期だけにとどまらず、成人後もなお強く関係していることについても、多くの業績が明らかにしている。
真の健康を回復し増進してこそ、局所病因の除去と相まって治療効果を高め、再発を予防することもできるという観点に立てば、進んで食生活改善を計らなければならない。
もともと歯科患者のほとんどは、咀嚼不全から不本意な偏食状態にある。気持よく食べられるように、何でも平気で噛めるように治したい望みは強い。だがそれは、食習慣の見直し改善に向かっての動機とはならない。
食生活改善への動機づけ
痛みを除き、一時的ではあっても機能を(暫間義歯などによって)回復させる救急処置を行ないながら、同時的にできるだけ治療の早期に、口腔局所の病因を理解させ、患者自身で排除する努力を援助すると同特に、全身的抵抗力減弱と治療効果の関係、歯や歯肉が弱く、病気にかかりやすい体になる原因、それらがともに食物に関係することの理解を深め、食事改善に導き、具体的方策を示し実行に移らせる。これらの療養の重要性は、他科においてイニシャルセラピーとして安静を命じ、広く輸液法が用いられているのと同様であるが、歯科臨床の実際では簡単なことではない。
食事指導は、短時日の目覚ましい効果によって励まされることは期待できないし、その実行度を検証することも難しい。したがって、プラークコントロールの指導より一層困難である。その動機づけの方法としては、権威ある本からの抜粋、コピーなどを教材とするしかないが、永らく適当なものがみつからなかった。
数年前からやっと全訳自費出版にこぎつけたW.A.プライスの『食生活と身体の退化』ほどに、適切で有効な図書はなかった。
W.A.プライス著『食生活と身体の退化』
W.A.プライスは、多くの研究業績、著書を残しているが、予防にはどうしても健康を積極的に導き出す方策を見つけ出さねばならない。プライスは、そのためには現に健康な人たち、部族、種族を探し出し、それらのよって来たる諸条件、特に食生活を詞べることと、それら諸部族が近代文明に接し文明食を摂るようになると、どのように弱体化、悪化した状態になるかを調べることこそが適切な方法と考え、つまり、予防には適正な食習慣の確立が不可欠であるとして、正しい食習慣の在り方を探究するための前人未踏の人類学的なフィールドワークを行ない、北極圏、アフリカ大陸,南・北アメリカなど世界各地の14の未開種族の食習慣についてロ腔の実態を記録しつつ、種族の生活実態をドキュメントしながら診査を行なった。
23万キロの調査旅行での問、収集・整理された3千枚の写真、あるいはまた、高栄養人工配合飼料による家畜の実験による同様な変化、あるいは人に見られない恐ろしい奇形などについて述べている。またさらに、それらの奇形、変形は遺伝ではないこと、つまり、そのような奇形の家畜を元の自然正常な飼料に戻した場合、すべて正常な仔が生まれるということ、また食品のどのような要
素によるものかも調べている。この膨大なフィールドワークと実験から引き出された結論は、食習慣、食餌内容が、歯科に関しては、歯と歯列を悪くする主因であるということでもって、弱くできた歯や不正に形づくられた顎形、歯列弓を身体の退化、劣悪化の指標ととらえ、これらは遺伝でもなく完全に予防し得ることを力説している。「どのような健全な部族も現代文明食の影響を受けたとたんに、たちまち純血の同一部族内において顔の骨格と歯列弓に変化が起ることによって、われわれが『遺伝的』と解釈していた変化、ないし劣悪化は、遺伝が『干渉により混乱せしめられた』結果であることを白日のもとに引き出した」という当時の『ボストン科学年報』評のごとく、また歯科界では『米国歯科医師会誌』に「公にされた歯科文献の最も卓越した言物の一つ、歯科医たるものすべての必読書」とまで称賛されている。
真の“健康作り”の基本となる食生活の見直し、改善への動機づけの媒体として取り上げるには、全くうってつけの書であるが、540ページの大著であり、一気に通読することは患者にとっては容易とは言えない。しかし今、その人に最も適切と思われる数ページを指定して読んでもらうよう貸し出す方法で、156葉の現場集録の説明写真、実験結果グラフなどを一瞥するだけでも、その大意を感動的に伝えられ、時間もかからず、人手も取らず感銘を与えることができ、したがって食生活改善の具休的問題もおのずと次第に解決される。
このような患者の生活の中にある疾病原因を、治療の基本的原因除去療法→患者の療養とし、治療参加の意識の中で完全治療の共同責任として、分担努力する治療の体制は、歯科疾患治療の中も、特に成人期の歯周疾患治療、再発防止に最も必要不可欠とされている治療体側である。
歯科疾患は歯肉炎から始まり歯槽膿漏による歯牙の脱落に終わる、非常に長期にわたる慢性進行性の疾患であって、わが国成人の90%以上が罹患している疾患である。歯肉炎は、思春期の頃に最も顕著に発現してから、次第に悪化する。したがって、乳幼児を除く歯科治療のあらゆる時期に、この治療体制に入ることが必要であって、一般に広く理解され行なわれてきている。
また、局所麻酔による無痛治療中の事故防止のために行なわれている血圧測定、尿検査は、多くの無自覚の高血圧、糖尿病患者を発見し、内科治療とともに、歯科疾患治療の療養として局所原因の歯垢制御(プラークコントロール)と平行して、全身的病因の食事制御(ダイエットコントロール)、すなわち食品の配分、噛む回数を正すことによる摂取量の制限を主体にした食習慣の改善は、役割分担治療参加の自覚によって中断されることなく実行されている。この状況については、アメリカにおいても現今、一般に定着したと、タフツ大学長J.メイヤー氏によって、1977年2月『ジャパン・タイムス・ウィークリー』で報道されているように、歯科治療のためにという理由で多くの無自覚患者が発見され、コントロールの中断もなく、習慣として定着、各科の言伝と称賛を得ているという記事からもうかがえる通りである。
このような歯科治療の際に行なう原因除去の指導は、療養として励行され、その効果が明瞭かつ爽快に健康に向かう実感として自覚、体得されて自信を生み、つぎつぎの課題に対しての跳躍台に育ち、自分に向けての自分だけの役割が果たされてゆく。そのような新しい生活態度は、治療の期開だけでなく、その後の生涯の生活に予防的生活として、食習慣は改善され、健康作りに結実し、
結果として再発は防止され、あらゆる疾病の初発は予防される。
このような治療方式こそ、健康作り運動の真の意味とその進め方を体得した、家庭内外の指導者の養成方式ともいえる。また、各科診療の基礎診療科としての、歯科、口腔、咀嚼科? のあり方が位置づけられ、このような治療方式によって初めて治療の順調な進転と満足な終了、再発のない良好な結果の永続が得られ、その結果として主治医は、上手、名医と称賛、信頼で大きく報いられ
る。今やこのような新しい予防と治療の合体、全人的ともいうべき総合的歯科医療休制は、次第に広がりつつある。
一方、このような治療体制を理解するための、社会の現状を踏まえた医療理念、生のエコロジー・社会性・技術の位近づけなどについての研修が、実例による治療、指導の進め方とその効果についての発表提示とともに、広く望まれていることも現状である。
本年5月、政令改正により健康作り指導要員の意味をも含め、保健所歯科医、歯科衛生上の増員配置が示された。やがて新しい要員に対して執務要領講習が行なわれるであろうが、是非以上に述べたような歯科医療を理解、援助、推進できる講習であることを希望すると同時に、一般にも是非公開し、心ある臨床家に道を開いて自費受講させ、保健所活動と連帯の絆を作るべきであることを提案したい。
おわりに無病息災はたしかにありがたい。しかし、それは本当にありがたい。
たいしたことのない病気で気をつけてさえいれば、そのままか、少しずつよくなる病気とともどもの暮らし、そのうちに自分の医学を知ることができ、健康作り運動を人々と進める暮らし。
「口腔の健康」を健康すべての指標ととらえ、すべて十分に噛みしめながら、取り入れる暮らし、そのような、せめて一病息災で過ごしたい。
公衆衛生 Vol.43 No.8 1979年8月